第11章 --第十一章
最後に必ず成就する悟り
親鸞聖人は宗教思想についていろいろ貢献されていますが、そのうちの最も重要な一つは、「正定聚(しょうじょうじゅ)と呼ばれる、涅槃に至ることを約束された人たち」の一員になれる状態についてのお考えです。従来の仏教では、この状態は人が死後、来世で到達する境地でした。また、人が必ず悟りに達することが完全に保証されている、不退転の段階とも考えられました。しかし、親鸞聖人は、この状態は人が信心を得るや否や直ぐに達成するものと説かれました。先のことではなく、この世のことでした。
この考えについて聖人が伝統と決別されたことは、宗教のみならず社会的にも意味があります。浄土教仏教の焦点をあの世からこの世へ移すばかりでなく、単に戒律、骨の折れる行や功徳で資格を得た人々だけでなく、どこにいてもすべての衆生を絶え間なく救う阿弥陀仏の本願を一心に信じる人すべてが必ず悟りをうるという驚くほど型破りな約束です。
聖人が伝統と決別されたのは大切な意味があります。信心が確立すれば、精神性の中身が最低の人でも最高のレベルの人と同等のレベルに高められるからです。伝統的に、大乗仏教では、悟りを得たい、仏に成りたいと願う修道者は、五十二の修行階位[五十二位]を経て進み、きつい修行と精進の後に、究極の目的地に登りつくと考えられていました。この複雑な段階からなる仕組みは、五段階[五位]あり、段階毎にレベルがそれぞれ十ありました。この仕組みの重点は第五位で、菩薩の経歴に伴う十のレベルでした。(第五位の菩薩の経歴に伴う重要な十種のレベルの概略については参、、Bhikshu
Sangharakshita. A Survey of Buddhism. (Boulder Colo.: Shambala,
1980.) pp. 448-452.)
最後の二つのレベルは、最高の悟りに着いたことを示していました。ですから、この仕組みは、暗に業績と社会地位を重視するエリート主義の構造であることが分かります。
歓喜地(喜びの段階)としても知られている、正定聚の初地(初段階)は、仏になれる修行で菩薩道として著名だった、第五位の最初のレベルで達成できることになっていました。一般に知られている菩薩修行道の十階位レベル(菩薩の十地)では、はじめから菩薩志望の者として立派に決心し修行していることが条件です。この階位は、不退転であり、菩薩は信心が堅いので、迷いの世界へ落ちこむはずがないことを示します。この階位について次のように記されています。:
仏法の真の心に目覚める菩薩の十地の初位段階で、人は仏の智慧の大海に入り、人の為になり、自己の大歓喜を得ます。この段階は,不退転の段階」としても知られています。この段階に一度着くと、後戻りすることはなく往生することが定まっています。この段階は親鸞に
とって、阿弥陀仏本願に対する信心が達成する段階でもあります。
[D.
T. Suzuki, trans. The Kyogyoshinsho; The Collection of Passages
Expounding the True Teaching, Living, Faith, and Realizing of the Pure Land.
(Kyoto: Shinshu Otani-ha, 1973.) p. 235, #92. 鈴木大拙の英文、教行信証論、235頁#92の拙訳z]
この階位は、元々、仏教の修行を高度に極めた信者に適し、迷いの世界で日常動いている普通の人間には向いていませんでした。このような階位が浄土経で一般衆生に約束されるのは、仏の第十一願に説かれているように、この世を出てお浄土で達成すべきことでした。
第十一願)たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、定聚に住し、かならず滅度
に至らずは、正覚を取らじ。[http://www2.hongwanji.or.jp/kyogaku/database.htm 『浄土真宗聖典』観無量寿経 聖教データベース]
現代語訳:
わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々が正定聚*に入り、必ずさとりを得ることがないようなら、わたしは決してさとりを開きません。
正定聚*(必ずさとりを開いて仏に成ることが決定しているなかま。
[浄土真宗聖典 浄土三部
経、仏説観無量寿経、現代語版 本願寺出版社、平成八年] 27頁]
親鸞聖人はこの教義を解釈し直し、悟りは浄土ではなくこの世で起こる状態であると説かれました。これで聖人は、浄土教をさらに一般大衆の生活に密着させました。聖人にとっては、阿弥陀仏が私たちを救いとって、決して捨てることがありませんので、信心を得るや否や直ちに救いが確約されたのです。それは、原則として、すべての衆生が既に救われていると阿弥陀仏の本願が確約しているのに、わたしたちが気づくか確信するかです。人々は自分たちの本当の運命について気づいていないのですが。
この確約は、親鸞聖人が「金剛石のような信心」と評した信心の本質である本願の他力が呼び起こした信心と共に起こるのです。
聖人は次のように述べられています。
弥陀他力の回向の誓願にあひたてまつりて、真実の信心をたまはりてよろこぶこころの定ま
るとき、摂取して捨てられまゐらせざる ゆゑに、金剛心になるときを正定聚の位に住すとも 申す。弥勒菩薩とおなじ位になるとも説かれて候ふめり。
[http://www2.hongwanji.or.jp/kyogaku/database.htm 『浄土真宗聖典』親鸞聖人御消息39、聖
教データベース]
現代語訳
救いのみ手をさしむけようとしておたてになった弥陀の他力のお誓いに遇わせていただ
いて、真実の信心をいただいて喜ぶ心の定まるとき、仏のお心のうちに救い取ってお捨てになりませんから、その人の信心は金剛不壊の信心とならい、そうなるときを、浄土に生まれる身と定まった位に住するとも、弥勒菩薩と同じ位になりとも説かれているようです。
[日本の名著6、親鸞、末燈鈔、18、石田瑞麿編・訳 124頁 中央公論社 昭和58年6月15日8版)]。
さらに、聖人は弟子達を激励しました:
おのおのみな往生は一定とおぼしめすべし。
[http://www2.hongwanji.or.jp/kyogaku/database.htm 『浄土真宗聖典』親鸞
聖人御消息2 聖教データベース]
それぞれみな、まちがいなく浄土に生まれるものとお考えにならなければなりません。
[日本の名著6、親鸞、末燈鈔 20、]石田瑞麿編・訳 127頁 中央公論社 昭和58年6月15日8版]。
広く浄土教の伝統で知られていることですが、自力で得た真心、信心、および往生したいという望みはぐらつくことがあるかもしれません。法然上人は、行自体に注目することで、この問題に対処しようとされ、努力を集中すれば、信心は、その結果自然に起こると説かれました。このような努力が招いた問題は、名号を何回、称えれば往生できる確約が得られるでしょうかということでした。従って、一回称えればいいか、何回称えれば十分だろうかという議論が続きました。親鸞聖人は、この問題を解決するのに、信心をもてば、人が弥勒菩薩(未来仏)および仏陀自身と同等になれると、説かれこの世で人のもつ精神性の状態をより確かなものへと高められました。何回名号を称えるかで救済が決まるのではありません。
大経はこの事を、「次いで弥勒のごときものなり。」と説かれています。初期の仏教教学が発達した際、弥勒菩薩は次の仏陀とみなされてきましたので、すでに仏に近く、弥勒仏と呼ばれる習わしがありました。親鸞聖人の教えでは、信心をもつ人は、本当に往生することが確約された数に入るので、弥勒菩薩と同じ位にあり、また如来あるいは仏陀と因位(修行道の階位)において等しいとされています。:
浄土の真実信心の人は、この身こそあさましき不浄造悪の身なれども、心はすでに如来とひとしければ、如来とひとしと申すこともあるべしとしらせたまへ。
[『浄土真宗聖典』親鸞聖人御消息11聖教データベース]
現代語訳
浄土の真実の信心をえた人は、その身こそあさましい穢れと邪にまみれた身であっても、心はすでに如来と等しいから、如来の等しいということもあるのだ、とご承知ください。
[日本の名著6、親鸞、末燈鈔3]石田瑞麿編・訳 107頁 中央公論社 昭和58年6
月15日8版]。
親鸞聖人は、阿弥陀仏の信者が,弥勒菩薩と同様に、仏になる因位の状態にあると主張されました。すなわち、今後仏になることは必然的に起こりますが、そのもとに成る原因は現在すでに完成しているということです。このように確約を受けると、真の信心を持っ求道者は仏に親しみを感じます。丁度、一人の息子、親友、真の弟子や、言葉で表せないほど高潔な人に感ずる親しみです。親鸞聖人はそれについてこう記されています:
しかれば、この信心の人を釈迦如来は、「わが親しき友なり」(大経・下意)とよろこびまし
ます。この信心の人を真の仏弟子といへり。この人を正念に住する人とす。この人は、〔阿弥
陀仏〕摂取して捨てたまはざれば、金剛心をえたる人と申すなり。この人を「上上人とも、好人とも、妙好人とも、最勝人とも、希有人とも申す」(散善義・意)なり。この人は正定聚
の位に定まれるなりとしるべし。しかれば弥勒仏とひとしき人とのたまへり。これは真実信心をえたるゆゑにかならず真実の報土に往生するなりとしるべし。
[『浄土真宗聖典』親鸞聖人御消息2聖教データベース]
現代語訳
ですから、この信心の人を釈迦如来は、わたしの友である、とお喜びになっておられます。
またこの信心の人を真の仏弟子といわれました。またこの人を真実の信心に住する人とします。この人は、仏がお心に摂め取ってお捨てになりませんから、金剛心をえた人ともいいます。また、この人を最上の人とも、好ましい人とも、勝れて好ましい人とも、もっとも勝れた人とも、めったにいない人とも申します。この人は浄土に生まれると定まった人と知らなければなりません。ですから、弥勒仏と等しい人といわれました。このことは、この人が
真実の信心をえたから、かならず真実の浄土に生まれるものであるということを示している、と知らねばなりません。そしてこの信心をうるのは、釈迦・弥陀及び十方の仏のお導きのたまものであると知らねぼなりません。
[日本の名著6、親鸞、末燈鈔2」石田瑞麿編・訳 106頁 中央公論社 昭和58年6月15日8版]
親鸞聖人が功徳を説く教義を捨てられことは、信心をえた瞬間に往生が現世で確約されるという聖人の教えと相まって仏教伝統だけでなく、インド宗教の基本原則にも反していました。聖人の解釈で、人々は、伝統的仏教思想が醸し出す不安から解放されました。それまで、浄土に往生しようとする人は、念仏を絶えず、時には一日に四万乃至七万回も称えなければならなかったからです。これは、仏教徒が数珠の玉を数える行の根拠であり、また、信者が肉親を来世で助けてもらう為に教団に依存する根拠になりました。盛大な葬式や命日のお祭りを行う功徳の回向で、生きている人も亡くなった人も地獄の恐怖を逃れ、かつ浄土で往生することが出来たのです。
阿弥陀(あるいは他の仏、菩薩)の名号を何回称えるかは、臨終にまつわる不安と関係がありました。そこで、死期が近づいたとき、内心、確かに仏陀を思い、正しく往生できるように努めることでした。死が予期しない時に素早くやってくることが多いので、このような行の考え方は、絶えず称名すれば死に臨んで、適切な精神性を確保でき、浄土に往生でき、そこで仏の歓迎を受けるという信仰からでした。(第十九願)この伝統的考え方は、アジア中に広まっていましたので、親鸞聖人がこの永く守られてきた信仰を捨てられたことが如何に決定的で革新的であったかを物語っています。古代・現代の考えの様々な面からこの伝統的考え方がどんなに重要であったかを説明すれば、親鸞聖人の革新的な解釈が歴史上・宗教上、重要な意味をもっていたかが容易にわかります。臨終の際人が抱く最後の思いが重要であることは、アジアでは紀元前800年に始まる古代インドのウパニシャッド
[Chandogya
III、14、l;
Prasna、III)9
Swami Nikhilananda. The Upanishads. (New York: Harper Torchbooks,
1963.) p. 300, Chandogya Upanishad, III, 14.
この文献はより曖昧。 p. 152,
Prasna Upanishad, III, 10.
この文献はより明瞭。「死に臨んで人が思っていたことが何であれ、プラーナ(生気)に侵入する。プラーナ
は火と結びつき、魂と共にその思索が形作ったどんな世界にでも成るのです。」から現代の仏教の考えに及ぶ長い歴史があります。]
W.ノーマン・ブラウン博士は、自著「宇宙の人類」の中で、インド人の思想でこの事が重要であることを強調しています:
人の欲望に関連して最も大切な時は死ぬ時です。そのとき自分の心に刻み込まれたものが何であれ、それで死後どんな状態になるかが決まるはずです。これは死期に臨んで、人は自分の最も奥深い望みを心に刻み込むと考ええられているからです....
インドの文学には、このモチーフを展開する物語が沢山あります。短い民話はこのことを簡潔に表しています。臨終の男の為に、友達がバラを抜いて、目の前に差し出しました。男は、それをじっと見つめ、目をそらさず、そのまま息を引き取りました。側に立っていた神官に向かって、亡くなった友人は、「どんな状態に生まれ変わったのですか」、と友達が尋ねました。するとその神官は、「お見せしましょう。」と答え、そのバラの花を取り、花びらを手でかき分けてから、「君の友達はここにいるよ。」と言いながら、バラの中心に横たわっている小さな虫を指さしました。
[W.Norman
Brown,Man in the Universe,(Berkely:University
of Californai Press, 1966.) p.85]から拙訳]
Bhagavad Gita(「祝福された人の歌」紀元前100年から西暦100年)は、著名なインドの主要な宗教書のテキストで、次のように述べています:
5.
私のことを覚えていて死ぬ人は、
死に臨んで、わたしの体に入り込む
彼が肉体から解き放されるときだ
このことは疑いの余地なくて
6.
どんなものをおぼえていても
死に臨んで彼が肉体を放すとき、
彼が入り込む、アルジュナ、
常にそのものに宿っている
9.
死に臨んで心ゆるぎなく、
信心と修行の力を身に付け、
生き生きと息を額に集めれば、
優れた神が授けた人の霊魂を得る
[Barbara
Stoler Miller. The Bhagavad Gita. (New York: Quality Paperback Book
Club, 1998.) pp. 77-78.
から拙訳]
この考え方は、カルマ(業、ごう)の一面として仏教に取り入れられ、現在、「宿業」として知られています。人は死ぬ間際に覚えることができるので(カルマ)、”臨終でどんなことを覚えても.その通りに、生まれ[変わ]るのです”
[Bhikkhu
Nyanamoli, trans. (Colombo, Sri Lanka: A. Semage,1964.) Path of Purity
[by Buddhaghosa] , XIX, 16, p. 698.]
E.J.トマスがこれに関して言っています。
仏教の教理では、人が来世でどんな風に生まれ変わるかは、本人の最後の願いで決まると説いています。ブッダゴーサは、因果律の説明で、この例を幾つか挙げています。ここで業の規則を必ずしも破る必要はありません。それがどんな風であっても、それに本人のカルマが働きかけるので、死に臨んで勝手な願いを出せないのです。実際には、願いは、本人が歩んだ人生やどのような性格であったか…などで定まるのです。
[E.
J. Thomas, History of Buddhist Thought, (New York, Barnes & Noble,
1951.) p.112.]から拙訳]
この考えは、自分で任意に選べると言う意味でなく、当人の人生から自然に出てくる傾向を表すことになっていたのです。しかし、自分の全人生の性格を概観するのは難しいので、人は死に臨んでどんなことが出てきても対処しなければなりません。
この考えは今日、小乗仏教徒の間で依然として説かれており、インターネットに公表された死に関するエッセイが示す通りです。:
最後に抱く一連の考えが一番大切なのは、これで来世の生き様が決められるからです。ちょうど眠りにつく前の最後の考えが目が覚めたときに抱く最初の考えになることがあるのと似ています。外部からの力や自分の任意の力で考えが決められるのではありません。本人が、自分に、いわば無意識にしているのです。その人の人生で最も大切な行いは、よかれ悪しかれ、命の最後に抱く考えを左右する行いです。このような行いのもとになる業は、重業(ガルカ・カルマ)と呼びます。大多数の場合、人が習慣的に行なっており、そのため最も好きな行いが最後の生きた考えになります。本人の人生を支配していた考えが臨終の際に強くできます。このような習慣からくる業は久習業(Acinnaカルマ)と呼ばれています。死に際の人に向かって衣(Pamsukula)をサンガ(僧侶・信徒の集団;教団)に寄付するようにさせたり、彼に経文を唱えるという考え方は、死に行く人を助けようとするため、近業によって本人がりっぱな最後の考えが得られるようにということです。しかし、病みつきになった習慣の力が勝ってしまうことがあり、最も敬虔な僧侶が経文を唱えても、本人がくり返し行った数々の悪行の記憶が意識にわき上がり、それが最後の思いになってしまうのです。
[V. F.
Gunaratna. Buddhist Reflections on Death. (Kandy, Sri Lanka: Buddhist
Publication Society.) Wheel Publication 102/103, pp. 33-34; Internet:
http://www.kusala.org/death.html;
(訳者注「折々の法話、仏教から見る死」、http://www.j-theravada.net/reflection-3.html,
グナラタナ長老(Ven.F.Gunaratna)翻訳・文責/出村佳子から抜粋。)]
有名な「チベットの死者の書」は、死の瞬間とその全過程にまつわる脅威について説明しています。ロバート・サーマンは、この書の緒言で、チベット人の死にたいする考え方は、死が「自動的、無痛の忘却」をもたらすという西洋の見解と異なると指摘しています。チベット人はそのようなことはありそうもないと見て、むしろ、死を「一種の転移へ向かう入り口と考えています。この転移は、準備が出来ていない者や否定的(消極的)な習慣や態度のためにひどく誤った方向に行ってしまった者にとって致命的に危険な状態よりひどいことがあります。」[Robert
A.F. Thurman, "The Tibetan Book of the Dead.,"
(NewYork: Quality
Paperback Book Club, 1994)p.18].
パドマサンバヴァ(蓮華生、Padma Sambhava)(8世紀.)によるこの著作は、死の全過程と死そのものを含む、死へ向かう旅に充てられています。この過程は転移段階があるのが特徴で、死の前、死の瞬間、と死んだ人が徐々に、業が進んで生まれた意識の影響下で、彼女が死の現実に気づく段階です。人の未来の運命の決め手は、死に至る旅路で出逢った体験は良かれ悪しかれ当人の心持次第だと認めることです。この著は修行者用の指導書で、死後の旅の案内をするため、葬式の儀式の一部として、どんな適切な祈りと教えを死者に読んであげたらよいかを説いています。死者は、自分の体験は、あくまでも実際に自己の業の心から生れた妄想に過ぎないと理解して、前向きに思考しなさいと、励まされます。これができれば、彼女は、最も高い位を実現し、菩提に到達するでしょう。心の適切な状態を維持出来なければ、仏教宇宙論中の六道(衆生が業によって生死の間をさまよう六つの状態で、下から次の順:地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上)の中の不運な運命に陥ることになるでしょう。信者の祈りは:
錯乱の結果、私が輪廻(輪廻)し彷徨っているときに、聴聞と思索と実践(聞・思・修)の三つからできている、心を惑わせるこのない光の道に、尊い教えの伝統に連なる師僧(ラ
マ)たちがお導きくださいますように。女尊であるダーキニーたちが私を背後から支えてくださ
り、恐ろしいバルドゥの難関を越えさせてくださいますように祈ります。どうか私を正しく 完全な仏の境地にお連れくださいますように。
[川崎信定。チベツトの死者の書。(ちくま学芸文庫、3、rep.2000.)
169頁;
Thurman, p.108)
一般に捧げる祈願は人が自分達を「悪の方向に導く(業)の力」が及ばないように生前記憶すべきものです。
悪い過去のカルマン(業)にもとづく苦しみを私が受けるときに、勝れたお方である寂静尊と忿怒尊が苦しみを取り除いてくださいますように。
習癖を作る力となったカルマンがもたらす苦悩を私が受けているこの時に、安らかで心地よい光明の瞑想が現れ起こりますように。)
(上記川崎174頁;
Thurman, p.112)
この型の仏教では、適切な指導と修行があれば、死は最高の自由な世界になりえます。この自由に到達する過程こそが「死者の書」の中心をなす題目であり、この書は、実は「中陰(衆生が死んで次の生を受けるまでの間。期間は一念の間から七日あるいは不定ともいうが、日本では四十九日)を理解して得る自然解放の偉大な書」です。この過程の目標をまとめてみますと:
自分自身の幻影の現出を自分自身の現れであると知ることができるであろう。<チョエニ(存
在本来の姿)の光の道>という純粋で変わることのない道に親しみと信頼を寄せるならば、精神集中(三昧)を中断せずに続けることができるであろう。そして汝の意識は大いなるサハジャ(自然生得)の身体に溶け入り、汝はサムボーガ・カーヤ(報身)を得て仏となることができるであろう。そしてその状態からさらに他のものとなる(退転する)ことがないであろう。
(上記川崎61頁;
Thurman, p.144)
チベット仏教は、死の問題へ対処するにあたり、臨終時の否定的な考えについて、そのような否定観念が与え得る(よい)効果を認めて、肯定的な影響をあたえるものに転換しようとしているのです。しかし、苦しんでいる人が、自分の考え方をそのように丁寧に考察したり、そのような肯定的(前向き)な考えを持ち続けるほどの意志の力を持っているとはまず思えません。従って、彼女には、家族とや友人達の助や、良い指導者や教師が死者にこの文句を唱えるお勤めが必要です。(川崎32-33,Thurman
118-119;121;131-132; Thurman,165-166; 187;197)家族が儀式を誤った方法や、不注意なやり方で実施したとしても、死者が前向きな姿勢で見なければなりません、そうすればこれらのお勤めから受けるご利益は大きいでしょう。(Thurman
178-179川崎122-125))
臨終の時についての考え方は、また、浄土教思想の発達に重要な役割をはたしました。この考えは阿弥陀仏の第十九願に登場し、徳を積むことが臨終の際に仏が来迎して帰依者を浄土に迎え入れる条件になっています。観経は、念仏をわがことのように代わって称えることが、取り乱した死に直面した人を助ける道であると説いています。:
かくのごときの愚人、悪業をもつてのゆゑに悪道に堕し、多劫を経歴して苦を受くる
こと窮まりなかるべし。かくのごときの愚人、命終らんとするときに臨みて、善知識の種々に安慰して、ために妙法を説き、教へて念仏せしむるに遇はん。この人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友、告げていはく、〈なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし〉と。かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く[http://www2.hongwanji.or.jp/kyogaku/database.htm 『浄土真宗聖典』聖教データベー
ス 観無量寿経]
現代語訳
このような愚かな人は、その悪い行いの報いとして悪い世界に落ち、計り知れないほどの長い間、限りなく苦しみをうけなければならない。
この愚かな人がその命を終えようとするとき、善知識ぜんぢしき:よき人)にめぐりあい、 そ
の人のためにいろいろいたわり慰め、尊い教えを説いて、仏を念じることを教えるのを聞く。しかしその人は臨終の苦しみに責めさいなまれて、教えられた通りに仏を念じることができない。そこで善知識はさらに、「もし心に仏を念じることができないのなら、ただ口に無
量寿仏のみ名をとなえなさい」と勧める。こうしてその人が、心から声を続けて南無阿弥陀
仏と十回口にとなえると、仏の名を称えたことによって、一声一声称えるたびに八十億劫という長い間の迷いのもとである罪がのぞかれる。 (浄土真宗聖典 浄土三部経、仏説観無量寿経、現代語版 本願寺出版社、平成八年)210頁
この教えに関して法然上人がなされた主張は、最も激しいもの一つであるとされています:
又いかにもいかにも臨終正念に安住して、目に阿みだほとけをおがみ、口には弥陀の名号をとなえへ、心には聖衆の来迎を待たてまつるべし。としごろ日ごろいみじく念仏の功を積みたりとも、臨終に悪縁にもあひ、最後にあしき心もおこりて、念仏の心行をも退しぬるものならば、順次の往生しはづして、一生・二生なりとも、三生・四生なりとも、生死のながれにしたがひて、出離の道にとどこほらん事は、まめやかに心うく、口惜き事ぞかし。
されば善導和尚の御すすめには、「願わくは弟子等、命終の時に臨んで心顛倒せず、心錯乱せず、心失念せず、身心にもろもろの苦痛なく、身心快楽にして、禅定に入るがごとく、聖衆現前したまい、仏の本願に乗じて阿弥陀仏国に上品往生せしめたまえと、ねんごろに発願せよ、との給へり。いよいよ臨終の正念をばいのりもし、ねがふべき事也。臨終の正念をいのるは、弥陀の本願をたのまぬものぞなんど申人は、善導にはいかほどまさりたる学生ぞと思べし。あなあさまし、おそろしおそろし。
[法然上人絵伝〔上〕大橋俊雄校注 法然上人行状絵図 第二十一 岩波文庫、岩波書店2002
年8月26日発行]
拙訳
どうか臨終に際しては、正念(仏を念ずる心)に心身をゆだね、阿弥陀仏を見て拝み,
口で称名し、心のなかで、仏の弟子らのご来迎を待つてください。年来、日頃大事に念仏を称える功徳を立派に積まれていたとしても、死期に臨んで、悪い因縁にも遇い、最後に悪い心が起きて、念仏の心と行の力が衰えてしまうならば、来世に往生できず、一度、二度、さらに、三度、四度と生を受けても、生死の流転をくり返し、さとりへ至る道に立ち止まつてしまうことは、本当に心からつらく、無念な事なのです。
そこで、善導和尚がおすすめになったことは、「なにとぞ、仏の弟子等よ、死期に臨んで、
心が転倒したり、乱れたり、失念したりせず、心身も様々の苦痛がなく、心地よく、瞑想に入るように、仏の弟子達が迎に来られ、仏の本願に乗せていただき、阿弥陀仏の浄土に勝れた者として往生させて下さいと丁重に誓願を起こしなさい。」おっしゃったのです。いよいよ死に臨んで正念と持つよう祈願すべきことです。なかには、死に臨んで正念を祈るのは、阿弥陀仏の本願を信頼しない者だ、などと言う人もいますが、そのような人は善導和尚にどれ程すぐれた人だと思っているのでしょうか。なんとも浅ましくひどいことです。
観経の説教に従い、法然上人は、他の箇所で暗に次のように言っておられるようです。念仏の行者は、臨終の床で助言してくれる僧がそばにいようといまいと、阿弥陀仏のご来迎を受けるでしょう、と。この際、念仏の行者は、信心のない人より優待され、一方では、助言僧の助けで往生できる人々もいます。ほかの箇所で、上人は、死に臨んだ人の精神的苦悩ののことを取り上げておられます。法然上人は、次のように述べておられます。
悶絶し候とも、いきのたえむ時は、阿弥陀ほとけのちからにて、正念になりて往生し候べし。
臨終はかみすぢきるが程の事にて候へば、よそにて凡夫さだめがたく候。ただ仏と行者とのこころにてしるべく候也。
「法然上人絵伝〔上〕大橋俊雄校注 法然上人行状絵図 第二十三 岩波文庫、岩波書店2002
年8月26日発行」)
拙訳
もだえ苦しみ気絶していても、息の絶える時は、阿弥陀仏の力で正念になって往生すべきです。臨終は髪の毛を切るほど短い時間なので、傍にいる人には、状況が分かりません。ただ仏と臨終の行者の心にだけ分かるのです。
仏教の伝統では、インドの伝統と同じく、臨終の瞬間はカルマと宗教修行の考えに基づく問題でした。この伝統の背景に反対して親鸞聖人は、信心を持つと同時に、信者は真に往生することがすでに確約された人達の仲間であり、死の臨んで心持ちに何ら不安がる必要がないと主張されました。このような聖人のお考えは、このように長い伝統を持つ状況を考えると、きわめて重要な意味を持って来ます。聖人自身が長い出家修行に携わっていた時に不安感を体験されていた為、仏教全般の伝統と立ち向かうことが出来たのです。これは、死に直面した大衆が、来世で悟りが得られるか確かでなくて、精神性の面で不安を抱いていたので、それから救うためでした。
親鸞聖人は、人をすべてなんら条件も差別もつけずに救済する根本は、阿弥陀仏のおはたらきであって、わたしたちのよいカルマの蓄積や死の過程でなす精神修行ではないと深く確信しておられました。聖人は、信心を抱く信者達に、臨終に際して心配しないようにと強く説かれ、これまでの伝統的考えを疑問視しました。:
御同行の「臨終を期して」と仰せられ候ふらんは、ちからおよばぬことなり。
信心まことにならせたまひて候ふひとは、誓願の利益にて候ふうへに、摂取し
て捨てずと候へば、来迎臨終を期せさせたまふべからずとこそおぼえ候へ。い
まだ信心定まらざらんひとは、臨終をも期し来迎をもまたせたまふべし。
[http://www2.hongwanji.or.jp/kyogaku/database.htm 『浄土真宗聖典』親 鸞聖人御消息2
聖教データベース]
現代語訳
お念仏を共にするものが、「いまわの時を期して」、と、いわれることは、わたしの力ではなんともいたしかたのないことぞあります。信心が真実のものとおなりになっている人は弥陀のお誓い
の恵みをえているうえに、さらに弥陀はそのような人をお心に救い取ってお捨てにならない、とありますから、ことさら臨終を期して、浄土からのお迎えをお待ちになる必要はない、と思われます。まだ信心の定まらないような人は、臨終をも期し、お迎えをお待ちになればよ